医療者と非医療者の医療に対する期待度の違い [社会問題]
医者や看護師と、そうでない一般の非医療者とでは、医療に対する期待度が大きく違うと感じることがしばしばある。
その最たるものは「医療訴訟」であると思う。
まっとうな医者なら、患者が来たらその患者の苦痛を取り除いてあげたいと思うし、訴えの原因となる病気を見つけて治そう、と思うだろう。
しかし、医療が専門細分化され、病気も複雑に細分化されている現在、確実な診断を医師が行うことはかなり困難だ。
しばしば患者から言われるのは、
「すぐに診断できないのですか?」
と言うもの。
受診したらすぐに病名が付くものだと勘違いされている人が多い。
診断は必ずしも1回の診察で付くものではなく、何回か診察を重ねているうちに明確になってきたりする。
時間をかけて経過を見ることもまた診療の一部であり、診察した瞬間に病名が付くのは多くの疾患のごく一部でしかない。
また、次のようなことを言われることもある。
「なんで(この病気と)分からなかったんですか?」
「なんで治らないんですか?」
と。
そもそも、医者なら確実な診断ができるとは限らない。しっかりと診察、検査をしてもはっきりと病名が付けられないこともある。特に、専門細分化された専門医なら専門外の疾患についてはほとんどわからないこともある。
また、患者も十人十色で、同じ疾患であったも治療に対する効果は人それぞれだ。治療開始してすぐによくなる人もいれば何日も何週間のさては何か月経っても治らない人もいる。
患者側は「医療は絶対だ」と思っている節がある、と感じる。
しかし、医療をしている者からすれば「医療に絶対はない」と思わざるを得ない。
それは医者の能力の限界を超えた問題である。
多くの勘違いをした患者サイドにより最近頻発している医療訴訟の問題。
これは委縮医療を招き、ひいては患者自身の首を絞めることになっている。
その現状に気付かない限り、今後の救急医療はますます縮小し、多くのたらい回しや受診機会の喪失につながるであろう。
担当医の対応に納得がいかなければ、納得いくまで説明を求めてほしい。
その努力もせずに安易に裁判に持っていくのは、自分や自分の家族の首を絞めているのと同じだということをわかって欲しい。
善意の医師たちの努力が、消えゆく命を守ろうと尽力する救急隊や救急医療従事者たちを、そして消えゆくべきでない命の火を消さないためにも、医療に対する見方を考え直してほしいと願う。
その最たるものは「医療訴訟」であると思う。
まっとうな医者なら、患者が来たらその患者の苦痛を取り除いてあげたいと思うし、訴えの原因となる病気を見つけて治そう、と思うだろう。
しかし、医療が専門細分化され、病気も複雑に細分化されている現在、確実な診断を医師が行うことはかなり困難だ。
しばしば患者から言われるのは、
「すぐに診断できないのですか?」
と言うもの。
受診したらすぐに病名が付くものだと勘違いされている人が多い。
診断は必ずしも1回の診察で付くものではなく、何回か診察を重ねているうちに明確になってきたりする。
時間をかけて経過を見ることもまた診療の一部であり、診察した瞬間に病名が付くのは多くの疾患のごく一部でしかない。
また、次のようなことを言われることもある。
「なんで(この病気と)分からなかったんですか?」
「なんで治らないんですか?」
と。
そもそも、医者なら確実な診断ができるとは限らない。しっかりと診察、検査をしてもはっきりと病名が付けられないこともある。特に、専門細分化された専門医なら専門外の疾患についてはほとんどわからないこともある。
また、患者も十人十色で、同じ疾患であったも治療に対する効果は人それぞれだ。治療開始してすぐによくなる人もいれば何日も何週間のさては何か月経っても治らない人もいる。
患者側は「医療は絶対だ」と思っている節がある、と感じる。
しかし、医療をしている者からすれば「医療に絶対はない」と思わざるを得ない。
それは医者の能力の限界を超えた問題である。
多くの勘違いをした患者サイドにより最近頻発している医療訴訟の問題。
これは委縮医療を招き、ひいては患者自身の首を絞めることになっている。
その現状に気付かない限り、今後の救急医療はますます縮小し、多くのたらい回しや受診機会の喪失につながるであろう。
担当医の対応に納得がいかなければ、納得いくまで説明を求めてほしい。
その努力もせずに安易に裁判に持っていくのは、自分や自分の家族の首を絞めているのと同じだということをわかって欲しい。
善意の医師たちの努力が、消えゆく命を守ろうと尽力する救急隊や救急医療従事者たちを、そして消えゆくべきでない命の火を消さないためにも、医療に対する見方を考え直してほしいと願う。
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